vol.8|夏 御徒町ー東京
photo: Waki Hamatsu instagram @wakyhama
model: Satoko Uchiki instagram @satokoyann
text: Eve TARK
enricaが大切にしている’縁’から生まれた「enricaの紡ぐ人とひと」 。Vol.8は2010年のenrica初コレクションから′縁´が続いている内木早都子さんをモデルに迎え、濱津和貴さんの写真と共にお送りします。
服づくりとの出会い
父親の仕事の関係でちょっとだけ東京を離れたこともあったんですけど、ほぼほぼ中野で育ちました。大学は福祉か服飾で迷って、で、どっちも受けて、福祉の方だけ落ちちゃったので服飾の短大に進学しました。ファッションに興味があったというより、自分がいいなっていう洋服をつくりたかったんです。私、子どもの頃から体が大きかったので、なかなかジャストサイズの洋服がなくて。鏡の前に立ったとき、いつもうーんって。でも大きなサイズだと、今度はデザインが好みじゃなかったりして、やっぱりうーんって。だから必要に迫られて、中学生の頃からリメイクしてましたね。鏡の前に立って、私がいいじゃんって思える洋服をつくりたいって思ったことがきっかけかな。
大学生のときに原宿のスタバでアルバイトを始めて、大げさに言うと人生が変わった気がします。そのときもいろいろあったんですけど、その後のことも考えると、スタバのバイトってポイントだったなって。なにより、すごい楽しかった。お店をみんなで盛り上げて、お客さまに喜んでもらえることにやり甲斐を感じて、友だちもいっぱいできて、働くことっていいなって思いましたもん。大学のときはスタバのバイトと、授業を抜け出してのカラオケと、あとは呑んでばっかり。勉強もしないでおおいに反省です。いまにして思えば、お父さん、お母さんごめんなさい、です。でも、あの頃に話したちょっとしたことだったり、一緒にいた友だちとの交流がいまにいかされていると思っています。いや、正当化しているわけじゃなくて、本当に。笑
スタバのアルバイト仲間にネイリストを目指している子がいて、彼女と一緒にサークルのファンションショーに出ることになったんですね。私は洋服をデザインして、自分で縫ってつくりました。モデルもスタバの仲間でした。でも、いざやってみると自分が思ったようにはならなかったというか、未熟さだけを知ったというか。ショーまでの過程は充実していて楽しかったんですけど、終わってからは後悔しかなかったですね。そのときに初めて本気で洋服の勉強をしたいって思いました。21歳のときです。親に頭を下げましたね。もっとちゃんと勉強がしたいので就職じゃなくて専門学校に進みたいのでお願いしますって。お金を出していただくので、そこはきちんと話をしました。母からは「ようやく思春期を抜けたね」と言われました。ショーの前と後ではまったく顔が違ってるって。
パリ時代
進学先にエスモードを選んだ理由は、パリ校があったから。私はずっと東京で暮らしていたので流行が身近にありました。でも体の中を流行が通り過ぎていくような感覚がずっとあったんです。東京は新しいモノに重きを置く街だと思うんですね。私はそんな東京に違和感があった。なにより、似合わないと思いながらも流行のスタイルに身を包んでいる自分自身に違和感があったんだと思います。一度、東京を出てみたかった。東京じゃない場所で洋服を勉強するとしたら、どこだろうって考えたときに、パリしか思い浮かばなかったんです。日本で地方に行くのも違うと思ったしね。
学校はすごく厳しかったです。朝早くから夜まで授業。課題を提出する前は徹夜も当たり前。あの頃、本気でやったと自分では思うんですけど、みんながやっていることなんで、そこは自慢にはならないですよね。結果として、1年後にパリ留学が叶いました。言葉はぜんぜんわからないですよ。若さで乗り切った気がします。現地で覚えていく感じでしたね。喋りたい人や、話を聞いてみたいと思っている人に会うときはノートにいっぱい書き込んで、これ言おう、あれ聞こうって準備をして出かけてました。留学は3年間。でもあっという間。気がついたら3年が経っていました。
結果的にパリには4年いました。最後の1年はインターンとして、当時、パリにいたenricaさんのニットブランドのco parisで働かせてもらったんです。私のインターンが終わるタイミングと、enricaさんがパリから日本に拠点を移すタイミングがほぼ一緒だったので、帰国して最初の展示会のときもお手伝いさせてもらいました。enricaさんの服は実際に身につけると、良さがよりわかるっていうのかな。ファーストインプレッションでいいなって思って着てみたら、えっ、なに、こんなに気持ちいいのっていうのが、想像を超えるんです。関われたことは幸せでしたね。
“かぐれ”との出会い
日本に帰ってすぐに就職活動を始めました。でも、落ちまくりでした。留学時代、パリでデザインの勉強をしたのに日本に帰ってデザイナーになれない人のことを冗談で負け組って言ってたんですけど、私がまさにその負け組になって、さすがに凹みました。書類でも面接でも、自分にしかできないことを伝えようとしてるんですけど、途中からどんどんわかんなくなって。20社は落ちたと思います。かぐれの募集は、販売だったんですよ。デザインに固執するのはやめようと思って応募したのが、かぐれです。アルバイトでしたけどね。父はずっと私のこと心配してました。パリに4年も行って、帰ってきたらいい仕事に就けると思っていたのに、いざ蓋を開けてみると、ぶらぶらしているんですもん、心配ですよね。
かぐれで働き始めて、接客の仕事ってひとくくりじゃないことを知りました。スタバのときも接客だったわけですけど、スタバはコーヒーを通じてお客さまの日常をいかにスムーズにできるかってことが仕事なんですよね。でもかぐれの仕事は、お客さまの心に何かを残す接客。最初は苦労もしましたけど、接客のロールプレイング大会で優勝して、アルバイトから社員になって、店長にもなって、とんとんといったことで、自分で言うのもおこがましいのですが、天職かもって思ったりもしました。逆の見方をすれば、デザイナー向きじゃないてことを思い知ったというか。机に向かって仕事するより、人と接している方が楽しいんです。出産を機に退職したのは、育児中は時短勤務になって、現場を離れることがわかっていたので、これは無理だなって。辞めようと。
ジュエリーとの出会い
いまはジュエリーのデザインと販売をやってます。コロナ前までは専門学校時代の同級生とオーダーメイドでウエディングドレスをつくっていました。オーダーメイドのウェディングドレスって、海外で挙式を上げる方がほとんどなんです。それがコロナでキャンセルが続くようになって。そんなときに、ジュエリーの会社で働き始めた友人に、エンゲージリングのコンペ用のデザインをお見せしたんです。そしたら、常識にとらわれないというか、アパレルの視点が入った発想がおもしろいって言われて、本格的にやってみようという話になったんです。人生ってわからないものですね。
人とモノを結ぶ
もともと綺麗な石を使っているアクセサリーが好きで、かぐれ時代に、アクセサリーをお客さまに説明するときに石のことも知っておいた方がいいと思って、パワーストーンセラピストの資格を取ったりもしていました。不思議ですねぇ、人生って。どこで繋がるかわからない。いまの私のお店にちらほらある家具は、かぐれ時代のものなんです。丸の内店が閉店するときに、処分予定だった家具を、なんとなくいただいて。どうするのこれってものが、ずっと家に置いたままになっていて。使い途もないから捨てようって何回も思いながら、でも捨てられず、ぐずぐずとそのままにしておいたら、自分でお店をやることになって、飾ったりすることができるんですから、これもまた繋がっていたんだなって。
ジェエリーをスタートして3年目。自分がどう動くべきかが見えてきたところです。拠点ができたと思えるようになってきました。この場をつくり上げていきたいですね。モノはモノでしかないわけです。でも私はモノをモノじゃなくしたいっていうか、買った人にとっての大切なモノ、できれば相棒にしたいと思っています。モノをモノにしてしまうのも売り手だし、買った人にとっての相棒になるかどうかも売り手だと思っています。ただ売れたらいいっていう思いは微塵もなくて、人とモノを結ぶ仕事だと思っています。私の中には、相手に喜んでもらいたいって思いがある。思い返せば、大学進学で福祉の道を考えたことも、そうだったんだなって。デザイナー向きじゃなかったんです、私。笑
(Instagram、Facebookで好評いただいた@enrica_jp「enricaの紡ぐ人とひと」 Vol.8~夏~御徒町(東京)の投稿のアーカイブです。)